安心のライフプラン・コンサルタント
~保険が希望になる瞬間~
細木原 美佐子
両親を看取ってわかった
保険が守る大切なもの
結婚2年目、「子育てしながらでも時間的に自由に働けるかな」。そんな軽い気持ちで保険業界に飛び込んだライフプラン・コンサルタントの細木原美佐子。40歳のとき、母の末期がんが発覚。最期のときを前に、母がつぶやいたある言葉のおかげで、「この仕事を一生続けていく覚悟ができて、仕事に対する誇りも生まれました」と言います。
首都圏営業本部
エグゼクティブ・
ライフプラン・コンサルタント
プロフィール
千葉県出身。1994年4月に3度目の転職で入社。日々の心がけは、お客さまに人生を考えるきっかけを提供する、後輩に夢や希望が持てる背中を見せる、周りの人から「いつも楽しそうにしているね」と言われること。趣味は旅行、読書。好きな漫画や小説に憧れてフランスやトルコに行ったことも。海外ではいつも母の形見の指輪をはめる。
突然訪れた父の死。
残された家族の心の隙間を実感
20年以上前、父は家を新築して1年もしないうちに亡くなりました。58歳でした。ガーデニングを本格的にやりたいという母の夢を叶えるため、父は退職前にローンを組んで庭の広い家を建てていました。「これから二人で楽しく老後を」と思っていた矢先に亡くなったのですから、母が心細くなるのも当然です。
私も妹も結婚して家を出ていたので、母は突然一人になりました。こんなにしょんぼりしちゃうんだ、とこちらが驚くほど落ち込んでいました。それ以来、お客さまに「結局は夫婦の絆に勝るものはないんですよ...子どもや孫は心の深い所の隙間を埋めることは難しいです」とお伝えするようになりました。
幸い、父は生命保険などに入っていたので、十分な保障を家族に残してくれました。大切な家を手放すことなく、母は穏やかに暮らすことができたと思います。母自身も保険の必要性、大切さを感じたようです。
今度は母のがんが発覚、
家族が前向きになるための保険とは
母は父の保険金の一部でジブラルタ生命の保険に加入してくれました。私も、母の介護費用などのために母を被保険者にした終身保険に加入。
それから8年ほど経った、母が63歳のときのことです。突然大量の下血をしたので地元の病院に連れて行ったところ、大腸がんが発覚。すでにステージ4でした。その後、2回手術を受けました。けれども、2ヵ月もしないうちに転移、「手術したから治るんだよね?」と繰り返す母に、もう治らないとは最後まで言えませんでした。
痛みも激しくなり、緩和病棟に移動することになった頃、私は母の看病とライフプラン・コンサルタントという仕事の間でさまざまな思いや迷いに揺れていました。そんな中、お客さまにお会いして相談に乗っていたのですが、実際は私のほうが支えられていたと感じます。
その後、悩みぬいた末にリビング・ニーズ特約を使用することを決意。事前に指定代理請求人を自分にしていたため、母に本当のことを伝えずに手続きができました。
母の最期を看取るため
父の思い出が詰まった庭を復元
母は病院の費用をとても心配していましたが、「生命保険がお母さんを守っているから、全然心配しなくていいよ」と言うと、気持ちが楽になって安心してくれたようです。実際、入院生活は数ヵ月におよびましたが、リビング・ニーズ特約やその他の保険の給付金のおかげで経済的な心配はまったくありませんでした。
いよいよ体調が悪くなり、母の一時退院が決まったときのことです。ふと父が母のために残してくれた大切な庭が荒れ放題であることに気がつきました。こんな状態の庭を見たら母がひどく悲しむと思い立ち、急いで造園業者に連絡。在りし日の美しい状態の写真を渡し、大急ぎで元通りのきれいな庭にしてもらいました。こういうときこそリビング・ニーズ特約など保険のお金の使いどころだと思い、思い切ってお願いしました。
ある日、ふせっていた母が「美佐子は人の役に立つすばらしい仕事をしているんだね」と、突然ぽつりとつぶやきました。頭ごなしに反対はしなかったけれども、母は、保険業界にあまりよい印象を持っていませんでした。それなのに、後ろ向きだったはずの母が自分の病気に向き合う中で「すばらしい仕事」と褒めてくれたことに、こらえようとしても涙が溢れました。このときから、私は心から自信とプライドを持って、仕事に取り組めるようになりました。少し遅すぎたけれど、母のおかげでライフプラン・コンサルタントとしての「覚悟」がようやくできました。
一時退院中、母のために私と妹で庭が見えるところに介護用ベッドを置きました。母は本当に喜んでくれていました。3日後、母は大好きな庭を眺めながら静かに息を引き取りました。